項羽と劉邦

圧巻のスケール!! 中国全土を統一した秦の始皇帝 やつさえ倒せば天下を手中にできる!

Story

 紀元前210年、秦の始皇帝が巡行中に突然崩御する。宦官の趙高は詔書を偽造して長子の扶蘇を殺害し、末子の胡亥に皇帝の位を継がせる。二世皇帝となった胡亥は皇族を殺し、始皇帝の治世を支えた重臣を粛清。朝廷を混乱に陥れ、始皇帝陵や阿房宮の完成を急がせた。その圧政に耐えきれなくなった民衆は次々に蜂起する。
 秦に滅ぼされた楚国の将軍の孫である24歳の項羽と、沛県の田舎町で亭長を務める46歳の劉邦も立ちあがった。勇敢で戦に長けた項羽は、叔父の項梁が死んだ後、楚軍の実質的な指揮権を握る。項羽は困難や危険をものともせず自ら先頭に立ち、鉅鹿で少数の手勢で秦軍を破り、名将・章邯を降伏させ、それによって秦に重い一撃を与えた。対する劉邦は、長い間庶民として生きてきたため、民情をよく理解し人を使うことに長けており、やがて広く人々の支持を得て勢力を大きくしていった。項羽と劉邦の二人は協力し助け合い、戦いの中で義兄弟の契りを結び、力を合わせて秦を倒す。しかし秦が倒れると、二人は天下を奪い合う手強いライバルへと変わっていくのだった……。

項羽と劉邦

 楚漢戦争が語り継がれてきた約2200年の間、項羽と劉邦は常に比較されてきた。二人は、ドラマチックなまでに正反対な特徴を持っていたからだ。項羽は、楚の将軍・項燕の孫として生まれ、叔父に項梁、項伯を持つエリート。若い頃から兵法を学び、比類なき武勇の持ち主でもあった。一方の劉邦は、下層の地主、つまり平民の家に生まれ、長く任侠生活を送っていたという。戦略と武力を備えた項羽は一人で兵を動かすことができるが、劉邦は周りの助けがないと事をなし得ない。また性格的にも二人は似ても似つかず、項羽は、勇猛果敢で無鉄砲、時に冷徹なところを見せるのに対し、劉邦は、機転がきき、ユーモラスで、義理堅く、人を惹きつける魅力を持っていた。始皇帝の巡行を目撃した時に、項羽は「いつか引き摺り下ろしてやる」と敵意をむき出しにし、劉邦は「いつかああなりたい」と夢を語ったという二人の性格を象徴するエピソードもある。打倒始皇帝、打倒秦を掲げる者同士でありながら、同じものを見て、一方は復讐に燃え、もう一方は夢を抱いたのだ。項羽と劉邦は、何から何まで好対照だったからこそ、惹かれ合い、争い合ったのかもしれない。

楚漢戦争にまつわる故事成語

 項羽と劉邦の戦いにまつわる故事成語は非常に多く、日本にも伝わってきている。代表的なものをいくつか挙げると、国に二人といない才能の持ち主を表す「国士無双」は、劉邦軍で特筆すべき活躍を見せた韓信のことを評した言葉。逃げ場のない状態で物事に必死で取り組むことを表す「背水の陣」も、韓信軍が川を背にして必死に戦って相手を撃破したことに由来し、「敗軍の将は兵を語らず」はその「背水の陣」で敗れて捕虜になった人物が言った言葉である。もちろん、誉め称える言葉ばかりではなく、劉邦軍を揶揄する言葉として生まれた「烏合の衆」のような言葉もある。また、項羽の側にも有名なものがいくつもある。先手必勝を意味する「先んずれば人を制す」は殷通が項梁に言った言葉、周囲が敵だらけの状況を指す「四面楚歌」は、劉邦との戦いで漢軍の陣営から故郷の楚の歌が聞こえてきたことで、楚の人間の多くが敵軍に投降したと思って項羽が嘆いたことに由来する。他にも、「焚書坑儒」「歯牙にも懸けない」「乾坤一擲」「捲土重来」などなど、現代にも通じる教訓が数多くあり、項羽と劉邦の戦いの教訓がいかに後世の人々にとって影響を与えてきたかを物語っている。